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多様性を求めたら、社会が分断する? 不登校34万人時代の皮肉

2025.12.08

文部科学省から発表された、子どもの不登校に関する最新の調査結果が話題となりました。 小中学校で学校に行けていない子どもの数が、ついに約34万人(2024年度)に達し、過去最多を更新したのです。これで11年連続の増加となります。児童生徒全体に占める割合は3.9%となり、「どのクラスにも1人か2人は必ずいる」というレベルとなってしまいました。

なぜ不登校の子どもが増えているのでしょうか?いじめや心の不安、コロナ禍の影響などさまざまな要因が指摘されていますが、より大きな視点から見ると、明治時代からずっと続いてきた「学校」という仕組みそのものが、今の時代に合わなくなってきている——そんなサインなのかもしれません。

「工場みたい」な学校と、そこから離れる子どもたち

私たちが当たり前だと思っている学校の姿。同じ年の子が、同じ時間に同じ場所に集まって、みんなで同じ授業を受ける。これは、よく考えると不思議な仕組みとも言えます。 もともとは明治時代に、国を強くするために「効率よく、均質な国民を育てる」目的で作られた仕組みでした。少し言い方は悪いですが、規格の揃った人材を大量生産する「工場」のようなモデルだったのです。

昔はそれで良かったのかもしれません。でも、今は時代が違います。一人ひとりの個性や多様な生き方が大切にされる時代に、この「みんな一緒」という画一的な枠組みは、多くの子どもたちにとって、少し窮屈すぎる場所になってしまったのではないでしょうか。

34万人という数字は、「普通」でいることへのプレッシャーや、「みんなと同じ」を強いられる学校の空気に耐えられなくなった子どもたちからの、「もう無理だ」という、声なきSOSなのかもしれません。

そして今、学校から離れる選択をするのは、消極的な理由だけではありません。「自分に合った学びの場」を求めて、積極的に外へ出る動きも加速しています。

その象徴が、ネットを活用した通信制高校、N高等学校・S高等学校の躍進です。好きな時に好きな場所で学べて、専門的なスキルも身につけられる。そんな柔軟なスタイルが支持され、開校から10年足らずで生徒数は3万人(2025年時点)を超える日本最大の高校へと成長しています。

学校に行けなくなった34万人と、別の場所を選んだ数万人。この膨大な数字は、「子どもはみんな、同じ場所で同じように学ぶもの」という、私たちが長く信じてきた前提が、もう崩れ去っていることを示しているように思えます。

「みんな一緒」の限界

「明治以来のシステムが限界に来ている」。そう感じているのは、現場の人間だけではありません。実は、国(文部科学省)も、その危機感を強く抱き、大きく舵を切り始めています。

それを裏付けるのが、2021年に出された中央教育審議会の答申(「令和の日本型学校教育」の構築を目指して)です。 ここで国は、これまでの日本型教育を評価しつつも、今後は「個別最適な学び」へとシフトしていく必要があると明確に打ち出しました。GIGAスクール構想で1人1台の端末を配ったのも、まさにこの「一斉授業からの脱却」を実現するための布石です。

さらに具体的な動きもあります。「学びの多様化学校(いわゆる不登校特例校)」の設置促進です。 これは、国の決めた標準的なカリキュラム(学習指導要領)に縛られず、授業時間を短くしたり、体験学習を多くしたりと、柔軟な学び方が認められた学校のことです。 国は今、この「普通の学校の枠に収まらない学校」を、全国に増やそうと試みています。

それでも「みんな一緒の教室」が果たしていたもの

では、今の学校システムはもう古いものとして、N高のような「自分に合った学び(個別最適な学び)」に全面的に切り替えれば、みんな幸せになれるのでしょうか。嫌な人間関係やストレスから解放されれば、それで万事解決なのでしょうか。

ここで少し、立ち止まって考えてみましょう。同じ空間と時間を共有し、同じ授業を一斉に受ける、学校の教室が、実は勉強以外の大切な役割を果たしていたのではないでしょうか。

それは、教室という空間が持っていた「雑多さ」の価値です。

公立学校の教室とは、ある意味すごい場所です。家庭環境も、親の考え方も、得意なことも性格もバラバラな子が、「同じ地域にたまたま生まれた」という理由だけで集められるのです。 気が合う子ばかりじゃありません。話が通じない子、ちょっと理不尽なことを言う子、生理的に苦手な子とも、狭い空間で一緒に過ごさなければいけません。

でも、この「自分とは違う他者」のシャワーを浴び続ける経験こそが、実はかけがえのない社会勉強だったのではないでしょうか。

「世の中には、自分とは全く違う背景を持ち、理解しがたい考えで動く人が確かにいるんだ」という肌感覚。これは、気の合う仲間だけの心地よいSNSのコミュニティや、似た者同士が集まる習い事では、なかなか得られないものです。

20世紀を代表する教育哲学者ジョン・デューイは、学校を「ミニチュアの社会」と呼びました。 異なる背景を持つ子どもたちが、共同生活の中で生じる摩擦や問題を協力して解決していくプロセス。その泥臭い経験こそが、将来、多様な人々で構成される民主主義社会を担う市民としての資質を育むのだ、と論じました。

IT化が進んだ21世紀において、その価値はさらに増しているように思います。 ネット上では、自分と似た意見や好きな情報ばかりに囲まれる「フィルターバブル」という現象が起きています。心地よいけれど、そこには「異質な他者」がいません。自分と同じ意見ばかりを見聞きすることは、社会の分断を加速させる危険性があります。

そう考えると、あのごちゃまぜの教室は、私たちが社会の分断にあらがうための、重要な「免疫」をつける場所だったのかもしれません。

もし、効率や快適さを求めるあまり、この面倒な「雑多な教室」を安易になくしてしまえば、私たちは社会を維持するために必要な、他者への想像力や寛容さといった土台を、知らず知らずのうちに失ってしまうかもしれません。それは結果として、子どもたちをより深い孤立へと追いやることにならないでしょうか。

ジレンマの中で、私たちができること

私たちは今、とても難しいジレンマの中にいます。

「社会のつながり」を守るために、今の学校システムを維持しようとすれば、「みんな一緒」の圧力で苦しむ子が減らない。34万人という数字は、来年にはもっと増えているかもしれません。 かといって、一人ひとりを尊重して「個別な学び」に急速に舵を切れば、子どもたちは楽になるかもしれないけれど、社会をつなぐ糸が切れ、バラバラでタコツボ化した社会になってしまうかもしれない。

多様性を尊重するための「個別最適化」が、皮肉にも社会の「分断」を招いてしまう。このジレンマこそが、今私たちが直面している大きな課題ではないでしょうか。

多様性の尊重と、社会の紐帯(ちゅうたい)の維持。この相反するようにも見える二つの価値のバランスをどうとるのか。教育が未来の社会に与える影響は、私たちが想像する以上に大きいのではないでしょうか。

【参考資料】

文部科学省「令和6年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」

学校法人角川ドワンゴ学園 公表データ

中央教育審議会「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)」

文部科学省 学びの多様化学校(不登校特例校)の設置促進について

(日本教科書編集部)